唐沢製作所は戦時中に一時経営休止したが、
昭和24年(1949年)、荒川区三河島でバンドブレーキ生産を開始し事業を再開した。
隣接地を買って工場を拡張し、
その10数年後にはさらなる敷地を求めて埼玉県草加市に工場を移転することとなる。
昭和50年台前半まではバンドブレーキ一本で経営をおこなった。
完成車メーカーの車種にあわせていろいろなサイズを開発、生産した。
子供用の自転車であれば普通のライニングでは制動力が強すぎて危ないので調整したライニングを開発したり、運搬車であればライニングの強度をあげたり、技術・性能面での仕様も用途に合わせ、ニーズに応えた。
ブレーキの制動力はライニングの配合次第なので、ライニングの工夫は絶え間なく継続して行なった。
しかしながら、
当時はバンドブレーキの問題点のひとつの「音鳴り」に関しては解消されることはなかった。
昔の人はバンドブレーキのキーッという甲高い音に対して寛容だったようで、
出前や配達の到着の情緒的な合図であったり、
音がなった方がブレーキがよく効いてそうな感じがしたのかもしれない。
使っているうちにブレーキバンドに金属粉が付着し、
ブレーキをかけるとバンドが摩擦力に耐えられずに振動して音鳴りすることが避けられなかったが、
ライニングの工夫だけではどうしても解決することができなかった。
そんな中、昭和55年(1980年)にサーボブレーキ開発に成功することとなるのだが、
そのきっかけは、某完成車メーカーのブレーキ生産を受注したことだった。
バンドブレーキで音が鳴るのは当たり前だったが、
そのブレーキは音がせず制動力が高いのを売りにしたブレーキだった。
出荷価格はバンドブレーキの2倍以上もした。
そのメーカーからの受注は1年余りで終了したが、
音鳴りが小さく、制動力が高いブレーキにニーズがあることを認識し、自社開発にのりだした。
構造の基本のひとつは、内拡式にして制動の摩擦部分をドラムの中に収めること。
摩擦音が聞こえにくくなると同時に、ライニングをドラムの内側にすれば、ライニングの材質も変えられるのではと考えた。
ふたつめはネジ止めである。
規格があってもドラムやハブには必ずコンマいくつかの誤差があり、回転すると必ずどこかに当たりがでてしまう。
その当たらない場所を探り、調整しながらネジ留めするという考え方だ。
クランクを引くとワイヤーでブレーキシューの片側のみが開き、回転すると誘われて全体が当たるように動く。
この仕組みは握力が弱い人でも使えるという利点があった。
<参考記事>
ブレーキにとっての最大の敵とは?
サーボブレーキ・効き味は?
「サーボ」とは、誘われて動くことのイメージから名付けたもので、
Slave や Serve からの造語で、これがそのまま業界で定着した。
バンドブレーキの問題を解決した新ブレーキ・サーボブレーキは
後に、中国電動自転車市場の急拡大により劇的なビジネスチャンスをもたらすこととなった。
この開発を機に、
サーボブレーキのライニングはアスベストを使わず、
あわせてバンドブレーキでもアスベストを使用するのをやめようと考えて新たなライニングを開発した。
唐沢製作所では昭和55年(1980年)にアスベストを用いたバンドブレーキの国内生産をすでに中止していた。
間もなく、1987年にはアスベストは発癌性を持つことが社会問題化し、使用が制限された。
これまで以上にライニング研究を積み重ね、
現在のバンドブレーキにはゴム系素材のライニングが採用されている。
添加含有させる成分など、あらゆる要素について試行錯誤を重ね、
制動力や耐熱性においても以前の素材のものと遜色ないライニングが誕生し、
ドラムの表面加工の研究なども進め、現在では音も極めて低く抑えることが可能となっている。
現行製品は初期段階でほとんど音を出すことはなくなった。
つづく
参考 唐沢製作所各取材記事