ブレ〜記

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NO.6 中国展開によるKARASAWAブランドの確立〜バンドブレーキの誕生と変遷物語

1990年以降、自転車業界は激変の時代に入る。

プラザ合意以後、
流通資本、完成車メーカーが相次いで台湾完成車メーカーからの調達を開始し、ウルグアイラウンドの自転車ゼロ関税化を経て、日本国内市場はノーガードの状態。
日本、台湾、いずれにおいても為替上昇、人手不足が著しくなり、自転車生産の場の中国大陸シフトが90年台に急激に進展していくこととなる。

平成2年(1990年)に日本の自転車協会が中国のパーツメーカーを招待した際、
「先進技術を使った」という触れ込みの中国のブレーキメーカーがあった。

それは明らかに唐沢製作所のサーボブレーキのコピーであったため、
翌年の1991年、当時の専務・唐沢英三は、江蘇省泰州にあったコピーメーカーに文句を言いうために勢いよくのりこんだ。

抗議に乗り込んだ中国はまだ泰州までの高速道路もなく長江を渡し舟で渡った時代、
上海空港から7、8時間もかけて到着した泰州にて、
抗議をするはずの場が、なんと合弁交渉の場に転じてしまった。

ミイラ取りがミイラになったように思えるが、
実は英三はかねてより、気候条件が日本に似ていてバンドブレーキの利用に適している中国市場の可能性に注目しており、
さらには日本国内の自転車生産は中国に移転してしまうことを予想していたのがその理由であった。

合弁交渉は英三が机を叩いて声を荒げる激しいものとなり、
これが唐沢製作所の中国展開のはじまりである。

ちょうどその頃、中国ではリムブレーキを使った実用車から軽快車に需要がシフトし始めたころで、
合弁により唐沢製作所は日本向け完成車の中国現地からのブレーキ供給で先行しただけでなく、
同時に中国市場向けの軽快車用ブレーキの供給でも大きく先行した。

1990年代の終わり頃、上海や天津などの地域で、鉛酸電池を用いモーターでフル電動走行が可能な「電動自転車」が量産化され、
2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の流行が、感染のリスクを避ける移動手段としてその普及を促した。

初期段階では、電動自転車の後輪ブレーキには自転車用バンドブレーキが使われていた。

自転車を元々生産していたメーカーがKARASAWAのバンドブレーキを電動自転車にも使っていたため、
唐沢製作所では自転車用なのか電動車用なのかをしらずにバンドブレーキを出荷していた。

当時、自転車用ブレーキにおいてKARASAWAブランドはすでに評価されていたため、
中国メーカーが電動自転車にはどのようなブレーキを使うべきかあまり考えずに、ただ有名なブレーキメーカーを選んだ結果であった。

その後、電動自転車の走行速度がどんどん基準を超えて速くなり、より強い制動力が求められるようになったこと加えて、運搬用途への使用により、バンドブレーキでは重さに耐えられなくなってきた。

そこで、スピードと重量に耐えうるようにドラムの内径を大きくし、制動力が強くなるよう摩擦面積を大きくした電動自転車専用のサーボブレーキを提案、開発した。

かくして、中国で急激に市場が生まれて拡大した電動自転車用ブレーキは、
KARASAWAのサーボブレーキがスタンダートとなっていった。

年間3000万台が生産される電動自転車業界において、
後輪ブレーキシェア4割以上を唐沢製作所の中国拠点が占めるに至ったのである。
とりわけトップグループの電動自転車完成車メーカーへの供給は独占に近い状況にある。
(その後、電動自転車業界が不況になると、メーカーのシェアの集中が進み、市場シェアは6割に上昇した)

二輪の電動自転車の伸びが鈍化した後には、電動三輪車の生産が拡大し、
そのブレーキもKARASAWAのサーボブレーキがスタンダードとなっている。

これにより、日本・中国において、KARASAWAブランドが確立、定着したと言えるであろう。

つづく

参考 唐沢製作所各取材記事


ンドブレーキの誕生と変遷物語 目次

  1. はじめに…〜プロローグ
  2. 自転車の歴史〜自転車は超高級品
  3. バンドブレーキ誕生のきっかけ
  4. 総冠式バンドブレーキの誕生とメーカーへの転身
  5. バンドブレーキ問題点解決とサーボブレーキ誕生
  6. 中国展開によるブランドの確立
  7. 最終話。現在のこと。未来のこと。